昭和46年01月23日 月次祭
ただ今お祭りが終わってから、裏へ下がらせて頂きましたら、公子さんが熱いおしぼりを持ってきてくれました。それでやっぱり一生懸命仕えますから汗が出る。一生懸命やるとやっぱり冬でも汗が出るんですよね。それで熱いおしぼりを持ってきて貰いましたから、そのおしぼりをこう拭かせて頂きよった、どうですか可笑しいでしょう。(笑い)ちょっと見たところが、自分で気が付かなかった。
そしたら前には鏡があったもんだから、ちょいと自分でも吹き出したんです。帽子のかぶり様で、こげん可笑しゅうなる。こげんすると、こげん品がようなる。信心もそうです。信心も頂きようじゃ、あれは本当に可笑しいものになるんですよ。または恥ずかしいものになるんですよ。または信心ちゃ尊いもんだなぁという事にもなるのですよ。問題はね、その人その人が頂く信心の頂き方、あり方によって決まるのですから、お互い御道の信者をさせて頂く者。
特に合楽にご縁を頂いておる者が、私は合楽の信者です、信奉者ですと言えれる。何処に持っていても恥ずかしくない信心を頂かなければ、神様に対しても、相済まん事になり。神様に対しましても、折角の尊い、有り難い神様を、滑稽なものにしてしまったり。その位な神様かと、いわゆる神様の権威までも傷付けると言ったような事にもなりかねないのです。どうぞ一つ私はもう今私はそれを実感した事です。もし私が鏡の前に立っていなかったら、恐らくその可笑しさに気付かなかったかもしれません。
けども鏡の前で、いわゆるこの教帽を上の方へ上げながら、拭かして頂きながらです。その格好の可笑しさに、自分ながら吹き出すような事を感じましてね。はぁ信心も、こうだろうなぁと言う事でございます。どうでしょう皆さん。皆さんの周囲の信心のない人、又信心の薄い人が、有り難い信心を頂いておられるなぁと、信心ちゃ尊いもんだなぁと言う風に見て頂いておるだろうか。私も信心するなら、ぜひ一つ合楽に連れて参って頂きたい、信心をさせて頂く気になったら。
金光様の信心を頂きたいという人が、皆さん達の周囲に出来てきよるでしょうか。でなくて、もし笑われておるような状態がもしあるとするならです、私は一遍本気で鏡の前に立ってみて、自分の信心の姿勢を正さなければいけないと思います。ですから自分の言わば信心のです。可笑しさというか、恥ずかしいと言う様な程度の人がまだ沢山あります。どちらにおいでですかと、はぁちょいとそこまで。金光様に参りよるちゃ可笑しゅうして言われん。何故そんなに可笑しいのであろうか。
昨日一昨日でしたか。まぁ朝のご祈念にお参いなされる方はご承知でしょうが、日田から綾部さんのお導きで、麻生という方がお参りになっておられます。この方は、富の寿の酒造場のご主人なんです。千石からのお酒を作っておられると言うのですから。昔は千石酒屋といやぁ大した酒屋でございましたよね。の、ご主人なんです。それがまぁ色んな難儀な事から、お導きを頂かれてから、お参りをして見えておりますけれども。どうも金光様のご信心に参りよると言うことは気恥ずかしい。
取分け店の者なんかに言うたり、店員の方達やら、長く勤めておられる方達がね、この頃まぁ夜な夜なじゃないですけどもね、朝早から出て行きよると、どっちに出て行きござるじゃかと思われたくない。丁度朝のご祈念にお参りをなりましたが、また午後から参って見えられた。先生実は私はそれこそ金光様のご信心に、お参りを合楽までもお参りをするという事がね、店の者に分かるとが恥ずかしかった。
所がね朝の御理解を頂かせて頂きよったら、金光様のご信心を頂いとりますという事をです、人に、わざわざ吹聴して回る事はいらんけれども、それを隠さなければならないような事ではおかげになりません。これはこういう例がありますと。大阪の玉水教会と言やぁ、当時の御道と言われる程しの教会である。大変な御比礼である。そこにある婦人の方がお高祖頭巾をかぶってお参りをして来た。
御取次ぎをなさると、お高祖頭巾をかぶって来なさるはずなんだ。頭が毛がないとだもん。頭が禿げてしまっとる訳です。そこでやはり恥ずかしいからです、お高祖頭巾をかぶってお参りをして見える。そしてここではどういうおかげでも頂けれるという話ですが、私のこういう禿げ頭にでん毛が生えるじゃろうかと言うてお伺いになった。生えますと仰った。明日からそのお高祖頭巾を取っておいでち仰った。
ありゃもう女の目として、頭が禿げ頭であるから、こげん恥ずかしい事ないですよね。男のはげ頭ならまだ見よかばってん、女が禿げとったっちゃやっぱ、いよいよ見苦しか。やっぱお高祖頭巾かぶらにゃおられん。けれどもねけれどもその恥ずかしいのも、忘れる位の一心をもって参ってこなければ、神様には通わないんだと。私はそう湯川先生と仰いますが、喝破されたんでしょう。生えますと。
明日からそのお高祖頭巾取っておいでとおっしゃった。明くる日からですね、それこそ大胆にもそのはげ頭で参ってみえる様になった。おかげを頂いてそれこそふさふさするような髪が生えたと言うお話でございます。と言う様なお話をいたしました。そこでその富の寿の御主人やっぱりご自身も、こりゃおかげを受けなければならんと思いましてね。けれどもいろいろ迷われた。
自分の言いよか番頭にいっちょ言うちから、乗せて行って貰おうとこう、その言いよか番頭が今日は、おらん。そしてもうこれは、これにこんな事言うたら一番いやち言うような、その、番頭さんが一人おられるだけだった。綾部さんの所にも電話をかけられる、高芝さん所電話をかけられて、今から合楽に誰かお参りする人なかじゃろうかち。ところが、今日は都合で参られんて言ったような事で、もう仕方がないから、その一番言いにくい、その番頭さんに頼んだ。
今日は合楽に参りたいと思うから、乗せて行ってくれち。それから勿論番頭さんですから、すぐ御主人を乗せてここへ参って見えられました。そうしてね言わば番頭にでも頭を下げて頼んで、ここにお参りさせて頂いたという事がね、とっても有り難かった。どうしてこういう、言わば詰まらん考え方をしとっただろうか。話を聞いてみりゃその番頭さんの奥さんも体が悪くて具合が悪い。
こういう新たかな神様であるから、自分も一つお願いをして御蔭を頂け。そしたらもう本当によか所に連れて行って頂いたと言うて、まぁ喜ばれた。そこでですほんなら、麻生さん、富の寿の御主人がです。何故に何故恥ずかしいと思われたかという事なのですよ。そりゃ大きな事業をしておれば、しておる程やはりお金の、毎日毎日やっぱ手形、手形で追われておられる。
こちらではもう、とにかくどれだけ財産があるじゃ分からん位あるとげな。けどもお爺ちゃまがちゃんと握っとなさるげなけん、どんこんされない。ですから言わばその資金で回しておいでられるという事だけでも、大変な事らしい。まぁこれは私昨日綾部さんから聞かせて頂いたんですけれどもね。ちょうどその日も、綾部さん所に見えた。まだその前の日ですそして電話ば貸して下さいち。
どうしてお家にありまっしょうもんち、家じゃそれが掛けられまっせんたい、恥ずかしか家じゃ。合楽に電話かけてお願いせんならんとじゃけんで、ちょっとあんた方の電話を貸して下さいち。そげんやって見えたげな。はどうぞお使い下さいち言うたら、いやこっちじゃあんた、あんたがたん番頭どんがおるけんで、上んとば貸して下さい。合楽に電話をかける事がなんか悪い所にばし電話をかけるごたる。
それがどうぞ御利益を下さい、お金のお繰り合わせを下さいと、そう言う様な例えばおかげ、おかげと言う様なものであるから恥ずかしいのであるという事。さぁどうぞ上の方をお使い下さい。それから電話私は知らなかった、綾部さんがたから知らやったけども、電話かかってきたやっぱその時。それから私は丁度ここに座っとったから電話したら。今からそのお金を借りに銀行に行きますと。
大分銀行と邦和銀行ですか。二軒どちらかに行かにゃならんが、まぁどちらも、道がふさがっているような感じなんだと。けれどもまぁ行くならどちらに行ったらよかろうかち言う事だった。やっぱそういう事であったから、番頭さん達には聞かせたくなかった訳です。はぁ家の親父がもう、いよいよ金に困ってから、金光様にもお伺いしよるばいのと、思われたくなかった訳なんです。
それで綾部さんの所までわざわざ、自動車でも十分位かかる所ば、わざわざ来とりなさる。そしてからそこの事務所でも借られんな、上の方の電話を貸して下さいと言うて、それこそ内緒で合楽に電話をかけられたのである。そげんとはこっちは知らじゃった。だからあの邦和銀行が良かろうち言うこつじゃった。そしたらその電話室から出て来てから、あそこん、綾部さん所の番頭さんに言いよなさるとげなもん。
ちょいと合楽の金光様の言わっしゃる事がですね、もうとにかくここん銀行には十二月からご無礼しとる事があるから、実は行かれんとこち。だからこれが借る筈がなかち。そればってん合楽の親先生は、邦和銀行に行けち言わっしゃったが。これがもし本当金ば貸すち言うならば、こりゃ合楽の先生はもう超人間ばのち言うちから、話なしよりなさったち。もう人間じゃなかち。
もう私は本当に若い時から、世の中にはそういう言わば超人間がおると言う事を、まぁ薄々感じて、そういう人間に一遍巡り合いたい巡り合いたいというので、ずいぶんとあっちこっち回った。そう言うとる人にも会うてみた。ところがね、合楽の先生に、一番始めにお会いさせて頂いた時に、非常にこの、色んな勉強なさっておられるですね、人相学なんかをなさる。
ところがもう、合楽の先生の人相に第一惚れたちいう訳。そしてまぁお導きを頂いて、繁々とお参りさせて頂いておるが、今日はこういう事でいわゆる朝もお参りをさせて頂いて、それからまた電話でその事をお伺いさせて頂いた。ところがね合楽の先生こそ、私が探し求めておった、どうも超人間だろうとこう言う。今日のこの私の邦和銀行行きが、もしおかげになり成就したならばです。
いよいよ合楽の先生は、超人間ばのと言うてその、綾部さん所の番頭さんに話して行かれたち。それから一時間ばかりして帰ってこられて、ちょいとたまがってる貸すち言うたち。(笑い)それを私に言わっしゃる、毎朝参ってきよんなさる。私は昨日綾部さんから聞いたんです。あそこの先生はこげん言いよなさいますよち言うてから。ですからね例えばとにかく一遍参ってんの、そりゃもう合楽の先生は、ほんなごて超人間ばのと言うような事ではです。人に可笑しゅうして話されんて言う事。
恥ずかしくてそういう内容であったら。それこそ聞く者が聞いたら可笑しい。それこそ「溺れるものは、わらをも掴む」と言った様な人ならばいざ知らず。一遍参ってみろか、それでほんなら、超人間に一遍会うてみよかと言う事にもなろうけれども。神様っていう方は、決してそう自分の人間の言うよう、思うようにおかげを下さる神様ではないと言う事。場合には神の権威にかけて、それこそびっくりするようなおかげを下さるけれど。それを何処までも、神の権威にかけてのものであって。
何処までも、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰るが、信心してと言うことが先になっているんだと。おかげを頂くと言うことよりもです、どうぞ信心を頂いてくれよと言う事なんです。皆さんの場合でもおかげを頂き、はぁもうたまがるごたるおかげを頂けるばので参りよるならです。とにかく帽子ばこげんかぶると同じ事。(笑い)ほら、私は、どう言わんでん可笑しかでしょうが。(笑い)
だから皆さんでもそうです。はぁちょいとたまがるごたるおかげばっかりち言うごたる信心なら、人にも語りもされん。また人が見てです、それなら可笑しいとしか言わんて。今日も丁度昼すぎに、幹三郎が出ておりました。学校の受け持ちの先生が見えられるとこう言う訳です。それでお父さん、あんたが会うてくれとこう言う。それで午後から若先生がお会いしたち。退学させて貰うんですからね。
所がとてもこの先生ばっかりはもうとにかく理屈ばっかり言うちから、もうちょいともうどんこんお話のなる男じゃなかち。それが又今日来るげなけん又私は会わんけん親先生あんたが会うちくれちこういう訳。(笑い)もうどうでんこうでんもう一遍やれち信心の道でん、建築家の勉強でん同じ事ち言うぎなもん、ほっで向うからこっちから言うたんじゃない、向うからお説教されちからもうぐらぐらして帰って来とるとじゃん。
それで今日のもそげん言うち来るに違いなかけんで、あんたが会いなさいち言うわけなんですよ。そしたらやっぱりあの幹三郎が一番まぁ懇意にしておったと言うその学生を三人と伴うて見えられました。中々若いもうそれこそ覇気のある先生ですが、もう私応接間に通らせて私が入って行ったらもう始めからです。お父さんどうぞお願しますち。私は信心の道は分からんけれども、おそらく私共は建築の勉強をさせて貰っとる、その勉強の道も、信心の道も同じこつと私は思いますと言うて。
もうそれこそとうとうとして、勉強の道を説かれました。それから私は聞かせて頂いてから、又別の話をさせて頂いた。ですから退学証明書は、もう懐の中に入れておりましたけれども。とにかく矢張り、親切でそうして言うて来て下さってあるんですから、一応今晩よくもう一遍考えて、そして改めて退学するなら退学するで、お願いに上がりますから、と言うて今日帰って頂いた。もう帰りがけには、私は久留米に一週間に一遍ずつここを通りますち言う。
金光様の信心て言うのを、今日初めて先生の話を聞いて分かりましたち。幹三郎君がそういう尊い事になって行きよるならばですね、恐らく退学する事でございましょうが。まぁ退学される事に致ましても、是から是をご縁にね又私共もお尋ねが出来て、お話一つも頂かれるような道を開けて頂きたいと思いますから、どうぞよろしくお願いしますて言うて帰られました。そん学生達が君達も一言ずつ言えち言われるから、まぁ皆がねやっぱその一生懸命で、その勉強の大事な事を説くんですよ。
これから一生の間に、例えば高校の卒業証書を持っとからければ、難儀をするぞ困るぞと言う事を、もうみんなが言うんですよ。それでそれをまぁ聞かせて頂いたんですけどもね。それでまぁそこで信心の有り難いと言う事を、別に説いた訳じゃないけれども。あれ以来言わば幹三郎が朝の三時過ぎに起きて、私の後に付いて毎朝出てまいります。もうとにかくね、どんなに思うて見ても今度の病気が、なるほど生きるか死ぬかと言うような大変な事だったけれども。
本当にこの人にとってだけではない、私親にとってみましても大変な信心の、お育てを頂いた意味の事を話させて頂きましたらね。そういう尊い修行が出来ておられるのならね、それがもう、今まであんまり責任取んなさるもんじゃけん。ここで言われなさらんごとなった。帰りそこの道々送って行く自動車に乗られる所まで、その事を言うて帰られました。もうあれほどしの決心が、本人が付いておられるのだから。恐らくまぁ退学の事になられましょうけれども。
今後ともどうぞよろしゅうっと言ったような事でございました。信心が可笑しいものと思うておった。中に一人付いてきておった子供が申しましたが、信心で病気が治るなんて、そういう事もあろう筈はないと言うて、私に申しました。それはしかも立派な、理論だてて話をするんです。ですから信心がただ病気治しとかね、災難よけと言うような事で、もし信心のそれが全てであるように思うておったらです、私はこの様な、阿弥陀に被っておる教帽のようなものではなかろうかと、こう思うです。
ところがね、信心しておかげを受けてくれよと仰る。おかげを頂くと言う事よりか、信心を頂くと言う事が先決なんだ。その信心とはこの様にも尊いものだと。この様にも有り難いもんだと。この様な覚え方が出来るもんだと言う事をです、思い方見方が出来る事の話をさせて頂いたらもう一言もなかった。いわゆる今まで自分が思うておった信心とは、全然違っておる事に気付かれた。
先日ここの先生の若先生とお会いした時には、どうでも説得してとこう言う気持ちだった。それをですね言葉は違いますけえれども、最近ここで言われておる信心のい言わば情念又は理念と。言わば私共の教師と生徒の場合でもそうだと。学校で言わば理論的な、その理念を教える。その後にですね情を持って個人との繋がりがなかったら、やはり本当の生徒と先生との間所謂本当の良いものが生まれてこないという事申します。
丁度私の情念と理念の話を聞かせて頂いてですね。もう理屈ではない情と理とが一つになって、そこから生まれてくる所の尊いもの。信心というものはどこまでも尊いものなんだと。有り難いものなんだ。だからそこの所をです、私共が目指した信心であって、私はこういう事になってくるんじゃないかとこう思う。けれどもお互いの信心がです、もうとにかくもう分からん時は合楽いきゃ、すぐ色々教えて頂く。
ただそういう様なね安易な、そういう事だけが信心の全てのように、自分が思うておったらです、人には恥ずかしゅうして話されんという事になります。そうでしょうが。今日、前講を、久留米の佐田さんが努めておられました。何時もの事ながらお話も上手です。信心の内容も、こう持っておられるし、現在取り組んでおられるご信心の様子を、お話なっておられましたが。もう私はほとほと感心いたしました。
皆さんはどういう所に感心されたでしょうか、今日のお話の中から。元旦祭にお参りをさせて頂いて、信心とは己を空しゅうする事だと。信心ていうものは自分を空しゅうする事だと。有り難いめでたい思いで帰らせて頂いておったら、ちょうど前を走っておる車が、自分の乗っておるナンバーと同じであった。県が違うけれど。あそこのは7154ですか。と言う車が前を走っておる。ちょいとお父さんご覧なさい。
今日自分というものをいよいよ空しゅうする事がです、己を空しゅうするという事が、信心だと説かれた。私共がそう思い込んで、ほんならこうして通わせて頂いて、そういうおかげを頂かなと言いよれば、もう神様がです、その「ない御用」とね、7154ですから、自分を空しゅうしてからの御用と言うこと。無条件の御用と。これば参りたいばっかりに参りよると。
これを参りよるばっかりに、こげな御用しよるとと言うものじゃない。と言うて主人と話て帰りました。とうとう後になり後ろになりして、その車が久留米まで一緒だった。それこそ、そこに天地の声を聞いた思いがしたと言われております。そこに神の声を聞いた。今年はこれでいけよと言うことなんだ。そこで遠い御親戚になる、難儀な病気をしておられる方をです。今自分の家に引き取ってから毎朝参って見えられる。
それがもう本当に、ちっとそっとの難儀な病気じゃない病気なんです。皆さんもご承知の通りなんです。それがね自分の生易しい神様を甘く見た、信心修行を甘く見た。こうして私共が一生懸命になるからもう、だいたい今年が二十歳になられる。もう青年式にゃいっちょおかげを頂いてから青年式に出てもらわならんと言うような願いじゃった。そういう、例えば,甘い考えが段々段々、日を追うに従って本当な事へ本当な事へと分かっていかれた。その過程を話しておられます。
しかし神様ちゃ本当恐ろしか。もう本当あぁいう例えば病人が一時ばっかりもう平生に、これでようなったかと思うごたる、おかげになったんですね。それで元気つかれてお母さんも参って見える、お父さんもまあ時々ではあるけど参ってみれるようになられた。所が今度段々今度は、大体あの病気はもう笑う笑い出したらね、もう良くならんというんだそうですね笑うその病人は。所がね変わって来た。
さめざめと泣くごとなった。最近の今度はてんで癇癪回すごとなった。色々やっぱりお酒というものはそんなもんです。お酒を飲むとね矢張りあの、ほりゃもうあんたこげん有り難かこたなかち言うちから泣くとがおりましょうが。(笑い)あれが泣き上戸じゃもん。とてもあぁたお酒飲んで、有り難しゅうて有り難しゅうて応えんで、俺ゃもうちょいとこげん有り難してこたえんち言うちから泣く。(笑い)
今の何が有難かかち言うたら、酒飲まれよるとが有り難かち。(笑い)それかち思うと、今度は酔狂気味にあるとがね、その癇癪回したりするとがこうテーブルでも、ひっくり返しておる。もう気違いと同じこつ。やっぱりお酒というものは気違い水。そこでお酒は行かん。御神酒ならよかとかと言うとこ。なかなかよか所があるげなね。(笑い)御神酒なら大丈夫、けどもお酒飲むけん、そげな事になる。
それかち思うともうちょいと、可笑しゅうもなかつにてんで、キャァーキャァーおろうでから、飲むと笑うとが居るです。この三つの物が出てくる人間の中から。だからお酒は気違い水と言われる。そういう物がですね、全部出てきよるという感じ。今朝なんかもうちった癇癪回してから、ここに出て来てから喧しいやりますもん。それから佐田さんなもうつき着いてから、ちからさぁっともうつぇっち走ってから、さっきから聞きましたらね、廊下ば走ってから、どっか向うさに行こうごたるふうじゃん。
私はほんに神様は恐ろしかち思うた。ここを上がり段々ば上がりよったげなら。それこそもうドンちいう音がしてから、ははぁこれは暴れよったけんで、あの佐田さんがこけられらっしゃったばいねち思いよったったい。(笑い)そしたらそうじゃなくて、自分がね向う脛打ってから、ひっくり返ってから動ききらじゃった。神様ちゃ恐ろしかでしょうが。それから音がする。向うで上向いて踊っとる。
して自分がひっくりかえっとるとじゃもん。と言う様な例えば本当に凄まじい働きですよね。そう言う働きの中に笑う事も泣く事も、又は怒る事も起こる。全部そういう物の良くない物を、こうお取り払いを下さっとると言った様な状態なんです。そして佐田さんがです、そういう中にどういう事を言うておられるかと。私が一番感心した事はそこなんです。皆さんどう思われたですか。
とてもそりゃぁほんなこて、どげん考えたっちゃね。それかまぁ近い親戚かね、まぁいとこ位でっち言うならばってん、まぁだ遠か親戚ですから。いうならもう他人と同じ事ですよ。それをそのほら、もうとにかく佐田さん一家がですね、よぉ本当是で皆が辛抱しなさる。ところがね、お父さんが言われた。俺達はまぁだまぁだ、大変なおかげを頂かなければならん事があろうが。
あれも頂かんなん是もどうでも、おかげを受けんならん事があろうが。そういうおかげを頂くためには、恵美子力を受けなければね出来んぞと。神様がこの様な事でこの様にまで佐田一家に力を与えて下さろうとしておる、この力をです、頂かずしては神様に相済まんじゃないかち言わっしゃったげな。そこん所をです。今日言わば佐田の奥さんはこう言うておられます。またと出来る修行ではない修行を、本気でそれを実意丁寧をもって頂こうと言うておられます。
私が一番素晴らしいと思うたのはそこなんです。またと出来る事ではない。こう言う所に信心がなってくる時です、信心ちゃもうなんと尊い事であろうかと言う事になるでしょうが。とにかく銭金じゃない。そういう難儀な問題をです、自分の上に引き受けて。しかもそれがです甘い考え。はぁ何時までたったらようなる、何時までたったらと、そういう願いがです、そげなこつはもう二月かかろうが、半年かかろうが問題ではない。神様がこの様にしてです求めて下さるこの修行。
またとでも出来る修行ではないこの修行をです。頂くのであるから、この修行を疎かにしてはならんと思いますと言うて、今日発表しておられます。私はそれをすぐここに書いた。もう信心とは、なんという有り難い事になってくるであろうかと。とにかく、金銭でどん言われて頼まれて、いやその受けられる事じゃないような問題をです。それこそ自分の、買うてなさっておられるような修行。
この中には買うてする修行、またはとりあえずする修行といったようなものが一つになっておる感じですね。今の佐田さんの場合の修行は。またと出来ないこの修行をです。その修行を全うしなければやまんというその心がね、私は尊いと思う、素晴らしいと思うた。さすがに、佐田さんだなぁと思うた。とても一家を挙げての、あれだけの道連れと信心が出来ておらなければ出来る事じゃない。
折角お引き受けをしたけれども、こりゃ恵美子さん、断ってくれんのと婆しゃま言わっしゃったら、もうそれでお終い。皆が力をね付き合うて、御主人は御主人でそういう頂き方ををして下さって。そしてその事を一生懸命その難儀に、言わば佐田さん一家が取り組んでおかげを頂いておる。お母さんが昨日、もうとにかく少しその模様が、その時々ありますからね。先生、折角佐田さん所でこんなにしておりますけれども。
もう今日は、家に連れて帰ろうと思いますとこう言われる。だから私は申しました。折角のご迷惑のかけついでじゃけんで、いっちょかけついでお願しなさいち私が申しました。それでよかろうかち。そりゃぁやっぱ、気の毒でたまりなさるまいばってん、まぁご迷惑のかけついでに、言うならば佐田さんも、その事を通して、そのように尊い修行をなさっておられるのであるから。
まぁ一生懸命、あなた方も修行なさなければいけませんが。まぁこれをおかげ頂けという風に申しました。どうでしょう。そういう所にお互いの信心が進んで行く時に、もう可笑しい、それこそ、もうほんに物好きじゃあるのち言うちから、言う者なあるまいと思うですね。本人としては本当に、またと出来ない修行をです。神様からさせて頂いておるのであるから、これを、疎かな事であってはならない。
後で振り返ってみて、あそこん所をもう一押し、あぁすりゃぁといった事のないように。もう目の詰まった信心修行をさせてもらわなければならんと言うておられる。そういうお話を前講でなさました。今日は私は、信心がね、ただそのおかげを頂いて有り難い、有り難いではなくて。信心を、どうぞ、信心しておかげを受けてくれよと仰る。その信心、おかげを頂くのではなくて、その信心を頂くという事。
その信心を頂くという事が尊い事になって来るのである。麻生さんの話しを致しました。そりゃぁ初めから、超人間を探して回っておられたと言う様な変わった方ですから。やはり合楽に初めて見えた時には、もう自分の探し求めるものを、ここに見出したと言う様に思われたであろうと思います。その後から御自分の体の事、お店の状態のことを、逐一お取次ぎを頂いてお願いなさっておかげを受けておられます。
それが例えば、ほんなら昨日の私、綾部さんから聞かせて頂いたお話によりますとです。そのような風に合楽の先生をキャッチして行かれております。ですから、そこん所がね、もし続いたらね、そういう信心だけであったら、人にあんまり、大きな声じゃ言われんち言う事。ちょいともう合楽の先生は神様のごたる人ばのち言うよる事だけじゃいかんち言う事。毎朝毎朝、朝のお参りをさせて頂くという事がです、毎朝三十分間のあの教話を頂かせてもらうという事がです。
もう愈々血になり肉になって行く事の楽しみが、合楽通いであるという事になって来たら、誰にでも話す事が出来る。それこそ胸を張って、合楽にお参りさせて頂いておりますという事が言えれる内容をもった信心を頂かなければいけない、という事になるのじゃないでしょうか。いよいよ、もう寒修行も、後十日余りになりました。まだ寒修行に参加しておられない方も沢山ありましょう。
今年は何て言うでしょうかね、やはり何時ものことですけども、寒中に熱気をはらんでの御祈念、ここのお広前いっぱいに、私はもう寒中修行の時だけ位は、この障子を取り外してここ一杯に大体、集まって来るくらいな修行をさせて頂かねば相済まんと思うのですけれど。まぁ後十日あります。それこそまたされない修行であります。また来年にならなければです、言わばその寒中修行は、もうありません。
全教一切言わば、勢を揃えての修行があっとります、そういう修行にね、そういう漏れないように、せめて十日間でも良いじゃないですか。一つ頑張ってご修行させて頂く。先ほど嘉朗さんが発表しておられましたね。御本部の御造営、それこそ千歳一隅のおかげを頂く機会であります。先日も教師会が三十何ヶ所の教会が、北野の教会に集まって若先生が参りました。それで大変なもう、その、ですね本部の方では御造営、御造営という事で一生懸命まぁ呼びかけておられます。
それで皆さんの所では、どう言う様な方法を持って、その御造営のそれにあたっておられるかと言ったら、他の教会はどこもまだそう言う事をしよらじゃった。ただ手を上げたのは家と合楽、家と合楽じゃなかったですね。家と甘木です。だけだったらしですね。それでもここでもまぁおかしな話、そのわずか百冊のあれがまだ五十冊しか売れとらんけんで、まぁほんに大した事なかなぁと私は思いよった。
ゆうべは昨日は丁度、御祈念が終わってから、皆さん立ち会いのうえに、もう開いて見ました。所が千円札がごろごろ出てくるんです。ありゃぁ五十円でよかつばってんから、五十円以上は、幾らでもよかごとなっとりますもんね。そるけんどうぞいっちょその積りで、あのまだ五十冊残っとりますからね。(笑い)だから恰好としてはまだ僅かです、五十円位じゃ。所が入っとるとがあんた、丁度一万七千いくら入っとりました。そるけん私は、やっぱ流石に合楽だなち思いました。
これからも、だから、引き続いて、なんぼでもいっちょ、あれは買わせて頂こうと思いよりますから。それがそのまま、あの御本部の御造営資金にならせて頂くのですから。もうこりゃ千歳一隅のまたと頂けない、私共も思います、今出来ません。出来ませんけれども、出来るだけの事でですね、御用を頂かせて頂かなければ、後で悔いを残すと思います。立派な御殿が出来ます。
あの中に本当本当に皮一枚分でもと、自分の思いが真心に込められておると言う所にです有り難い。ほぉ立派なもんが建っただけじゃいかんと、私は思うですね、お道の信奉者としてですたい。ですからお互いがね、それこそ何かのはしから一つおかげを頂かせて頂く。真心を結集したものをね、合楽教会で信者一同でね、奉納させて頂きたいと思いますから。又とない修行です。まぁ又とされない修行は沢山あります。
そういう修行を一つ本気に綿密に、それこそ小さい事の今年のスローガンでありますようにね、金光様のお歌の中にもありますように、このくらいの事だから、よかよかと言ったような事じゃなくて、どのような修行にでも一つ、本気で取り組ませて頂いておかげを頂きたい。とりわけ後残された十日間の寒中修行。どうぞ本当に言うならば、合楽全員がね、あの寒中修行に参加して頂きたいというような願いをこめて、一つおかげを頂かれますようによろしくお願いいたします。
どうぞ。